ここのところ、立て続けに展示などをみて歩きました。
bunkamuraギャラリーの「少女幻想綺譚」、山本じん氏の人形が展示されたファッションブランドShare Spiritのコンセプチュアルな展覧会「Museum」、ストライプハウスギャラリーでの松沢香代さんの「ブレネリ」を見ました。「ブレネリ」に関連する黒谷都さんと松沢さんのユニットによるKu in Kaの公演「楽園」も見ました。
「少女〜」はその重心がポップカルチャーに寄っていて、その現状について考えてしまいました。その増殖力、というか、繁殖力が、予想していたよりも息が長く、影響力を海外にもじわじわと広げていて、近現代社会におけるボーダーの認識をあらゆる側面から浸食しているように思えます。それは現代の現実であり、動きなのでしょう。
ポップカルチャーとコマーシャリズムは密接な関係があると思いますが、欲望がダイレクトに反映するコマーシャリズムとは一線を画し、欲望を相対化したところにポップカルチャーの美意識があると思います。似て非なる作品群を目にしながら、最近の作品からそれを感じるものは少ないという印象を持ちました。しばらくは作家の数と優れた表現は反比例の関係をもちながら、作家と呼ばれる人の数が増えていくのだと思います。
「Museum」は、山本じん氏の80年代に制作された3つの乳房を持つエロチックな女性のトルソ(未発表)が、別アーティストの手になる特製の天蓋のなかで艶めかしく展示されていました。
毎回、その時にしか生まれてこない形や演技を追求する松沢さんの「ブレネリ」と、松沢さんと人形遣い黒谷都さんのユニットKu in Kaの「楽園」は、常に挑戦的で二人の「今」を感じるライブ感覚があります。ライブ感覚は私にとって重要な感覚なので、彼らの展示や公演は欠かさず見ています。二人が生み出す、狂気が降ったようなシャーマン的な造形や演技には引き込まれてしまいます。その意味では、今回はおとなしいと思いました。昨年、黒谷さんの国立ラボの公演を見て感想を書くつもりが書く時間がないままきてしまいましたが、今回も感想に似たものをもちました。その時も今回も表現に舞踏の要素が入り込んでいるのですが、私の目にはその「人体」が邪魔に映ります。
私は黒谷さんが、言葉で意味づけしにくい不思議な様相のオブジェ(布や人形)を手にして、命として認識させる動作を見たくて行ってるのですが、舞踏手の肉体によって時間を引き延ばされている、邪魔されている感じがします。だから、なにか薄まった感じがしてしまいました。
土方巽が暗黒舞踏を始めたとき、舞踏手に絶食させ肉体を骨と皮くらいになるまで絞ったことは、肉体をオブジェ化する意図があったと思います。黒谷さんの舞台では、人形的なオブジェを扱うのだからその設定がデフォルトでできているのにも拘わらず、また黒谷さん本人は体が小さく人形のような人でもあるので気にならないのですが、あえて舞踏手の「肉」体を介入させることがどういう意図でされているのか、私には伝わってきませんでした。
人形劇をベースにしたパフォーマンスでは、同じステージにおける肉体の存在はデリケートに扱われていることでしょう。今回もデリケートなディスカッションの経緯が感じられるものでしたが、あれだけ優れた目を持っている黒谷さんをはじめとするスタッフなのだから、「見えてしまうもの」に対して、もう少しストイックな対応をされたほうが良かったか、と思いました。
無論、これが私の私見であることはいうまでもありません。